江戸時代のブランド
全国で活躍した石の職人
旅稼ぎ石工
厳しい財政の高遠藩は出稼ぎを奨励し、高遠石工は「旅稼ぎ石工」として全国各地に出向き石造物をつくって藩財政を助けました。 現在石工名が判明しているだけで1300名もの石工が全国で活躍していました。
石工は、古くは石大工とも呼ばれ、石切・石屋・石匠・石師等とも言われた。 山から石材を切り出す、石垣を築く、石仏や記念碑、鳥居等を彫刻する等種々あるが、専門職で技術が磨かれると芸術家であるが、江戸時代には自他ともに職人という認識であった。 高遠石工の名は地元長野県=信濃はもとより近隣諸国、関東東北地方まで知れ渡っていた。高遠石工の範囲は、藩の中心部及びその周辺出身の石工を指すのであろう。 石工の出身地区別では藤沢長藤地区・入野谷地区が圧倒的に多い。それに続いては川下り郷(三峰川下流)。 高遠石工の活動は中世からとされ、活発となるのは十七世紀末元禄頃からで、寛政・文化(1800年)頃を頂点に江戸時代末期まで続いている。 石工は高給取りで8日で金1分、32日金1両と決められていた。藩には運上金と行って営業税を一人年1貫文(千文)を納めるから貧乏な藩は助かった。 県外では群馬県が圧倒的に多く、続いて山梨県・岐阜県・神奈川県、その他関東東北地方の各県、遠くは青森県、山口県まで出かけている。
庶民の民間信仰に寄り添った高遠石工
高遠石工は、災害や病気の多かった苦難の時代に、身近な信仰の拠り所として大切にされた石上石仏など石造物をつくった高遠藩ゆかりの職人たちの総称です。全国18都府県でダイナミックに活躍しましたが、古文書には、江戸城の石垣や、お台場の砲台の石積みをつくったことも記されています。
城下(しろした)の青石
守屋貞治が好んで使用した高遠の青石は、高遠城大手門下、三峰川と藤沢川合流点付近、現在三峰川大橋下で算出した緑色の結晶が細かく、堅く風化しにくい石材である。一般に「城下の青石」と呼ばれていた。しかし、その層は幅が狭く、そのほとんどが三峰川の河床より低いため、産出量は限られていた。 現在、江戸時代の採掘の痕跡は残っていない。江戸時代の採掘には、幅約六から九センチメートルの矢(石を割るためのくさび)を使ったが、幅約三センチメートルの昭和の矢穴がある切れ端が、数年前一つ見つかっただけである。(現在不明) この他数カ所で近年の採掘が確認されているが、いずれも産出量は限られ、石質は「城下の青石」に勝るものはない。 (文・北原石材店 北原多喜夫)
江戸城
江戸城の石垣工事は慶長11年に始まり、家康、秀忠、家光が三代にわたって主に西国の諸大名に命じて築き上げたものです。慶長16年からは東国大名に命じて西丸堀普請を行いました。高遠石工の普請参加に関する記述も残っています。 『新編武蔵野風土記稿』には、旧伊奈村(東京都あきるの市)の記述に「住吉信濃国伊奈郡より石工多く移り住で(中略)天正十八年御入国の後江戸御城石垣等の御用をつとむと伝へり」とあります。 また、『千代田区誌上巻』には、慶長16年に高遠藩の保科正光が西丸堀普請を担当したことが記されています。 西の丸は、現在は宮殿や宮内庁がある皇居の中枢部にあたります。
お台場「品川浦砲台」
ペリーの来航に脅威を感じた幕府が品川沖に六基の砲台をつくりました。現在は第三砲台と第六砲台の二基が残っています。(写真は第三砲台) 古文書『藤沢片倉村・石切目付手控帳』に「品川浦御台場普請に百人の高遠石工が出動」を記されています。