高遠石工の名工たち

飢饉、災害と
高遠石工の名工たちが
活躍した時代

  江戸時代には飢饉や洪水、噴火などの災害、まあ、天然痘などの病に人々が大変苦しめられた時代です。 天竜川は、江戸時代270年間に90回以上の洪水がありました。3年に1度の頻度です。 また、上伊那地方の災害などによる凶作は、記録に残っているだけでも79回。4年半に1回は凶作があったことになります。石仏や石造物は、人々の祈りの拠り所として建立されたものが多く、長い間大切に守られてきました。


 
 
 

向山重左衛門(むかいやま・じゅうざえもん)

生年不詳〜安永2年(1773年)

高遠町御堂垣外の石工で、宝暦、明和年間を中心に辰野町や箕輪町など主に上伊那北部に優れた彫像を残している。辰野町平出の高徳寺の巨大石仏や箕輪町沢の西光寺の如意輪観音、伊那市高遠町の香福寺の延命地蔵など、優しい表情と重厚感のある作風で知られる。
 


 
 
 

渋谷藤兵衛(しぶや・とうべえ)

天明4年(1784年)〜嘉永6年(1853年)

守屋貞治の一番弟子と云われる高遠石工の名工。伊那市美篶の生まれ。伊那市内、伊那谷はもとより、諏訪地方、木曽地方など各地に多くの石仏や石造物を残している。貞治の石仏と見間違えるような石仏のほか、衣やお顔に特徴のある小型の彫像が近年数多く発見されている。伊那市美篶の洞泉寺には藤兵衛の宝篋印塔が安置されている。
 


 
 

下平文左衛門・太左衛門(しもだいら・ぶんざえもん・たざえもん)

文左衛門は生年不詳、享和2年(1802年)没 
太左衛門は生年不詳、天保8年(1837年)没<推定>

伊那市東春近田原の石工で、二人は兄弟とも親子ともいわれる。近年、文左衛門の墓が東春近で発見されている。守屋家が地盤としていた駒ヶ根市など上伊那南部に数多くの石仏を残していることから、守屋家とつながりが深い石工と推察される。近年、伊那市内から多数の石仏が発見されている。
 


 
 

小笠原政平(おがさわら・まさへい)

寛政8年(1796年)〜文久元年(1861年)

伊那市東春近下殿島生まれ。地元の東春近はじめ駒ヶ根市、宮田村など上伊那南部に数多くの石仏を残している。頰骨が張り微笑をたたえたお顔や、奥行きのある作風で知られ、双体道祖神も各地に残している。弟子ではないが、貞治の作風の影響を受けた石工の一人。
 


 
 
 

有賀鶴蔵(あるが・つるぞう)

生年、没年不詳。(享和年代から文化年代を中心に活躍)

伊那市西春近表木の石工。宮田村と伊那市内各地に一目で鶴蔵の作とわかる作風の石仏を残している。宮田村内各地に安置されている西国三十三所観音は、鶴蔵が中心になって彫像したもので、貞治の石仏も6体含まれている。その作風から、貞治と同時代に石工修行をしたことが推察される。伊那市西春近の法音寺や法正寺にも鶴蔵の石仏が残されている。