石仏師・守屋貞治
江戸時代、石工の仕事は細分化され、専門性が高い者も増えていましたが、高遠石工の中でも稀代の名工と呼ばれたのが守屋貞治です。彼は石仏の制作を専門とし、68年の生涯において336体におよぶ名作を残しました。
貞治は明和2年(1765)、高遠藩藤沢郷塩供村(現、伊那市高遠町長藤)で守屋孫兵衛の三男として生まれました。守屋家は貞治の祖父・貞七の代から石工を生業としており、貞治も自然と石工を志すようになりました。修業時代の師は不明ですが、造形や技法の面で祖父や父の影響が垣間見られます。
温泉寺(現、諏訪市)の住職で名僧と名高い願王和尚を仏道の師と仰いだ貞治は、自らも仏に帰依し、経典や儀軌(経典に説かれた仏、菩薩などの姿形をまとめたもの)に基づいて仏心の込められた石仏を刻みました。石仏を刻む際は経文を唱え、香をたきしめて作業に打ち込んだといわれています。貞治が単なる「石工」ではなく「石仏師」と呼ばれるのは、こうした所以からです。
貞治は亡くなる前年の天保2年(1831)に、自身の生涯を振り返り、これまでに彫り上げた石仏を『石仏菩薩細工』にまとめていますが、これによると貞治が手がけた作品は1都9県(東京都、神奈川県、群馬県、山梨県、長野県、岐阜県、愛知県、三重県、兵庫県、山口県)に及びます。西日本に作品を残した高遠石工は貞治以外には確認されておらず、また、他の高遠石工を見ても複数の場所で活動した例は少ないため、この広範囲にわたる活動こそが貞治の特徴といえます。これは願王和尚の影響によるところが大きく、貞治のよき理解者であり、彼の石仏を礼賛した願王和尚が、全国各地の布教先で貞治を推薦したためと考えられます。
身を律し、ひたすら意にかなう石仏を造立し続けた貞治でしたが、天保3年11月19日、静かに68年の生涯を終えました。他の石工を圧倒する技量で彫られた貞治の石仏は、端正で繊細優美でまさしく「貞治仏」と呼ぶにふさわしい名作ばかりです。
貞治は明和2年(1765)、高遠藩藤沢郷塩供村(現、伊那市高遠町長藤)で守屋孫兵衛の三男として生まれました。守屋家は貞治の祖父・貞七の代から石工を生業としており、貞治も自然と石工を志すようになりました。修業時代の師は不明ですが、造形や技法の面で祖父や父の影響が垣間見られます。
温泉寺(現、諏訪市)の住職で名僧と名高い願王和尚を仏道の師と仰いだ貞治は、自らも仏に帰依し、経典や儀軌(経典に説かれた仏、菩薩などの姿形をまとめたもの)に基づいて仏心の込められた石仏を刻みました。石仏を刻む際は経文を唱え、香をたきしめて作業に打ち込んだといわれています。貞治が単なる「石工」ではなく「石仏師」と呼ばれるのは、こうした所以からです。
貞治は亡くなる前年の天保2年(1831)に、自身の生涯を振り返り、これまでに彫り上げた石仏を『石仏菩薩細工』にまとめていますが、これによると貞治が手がけた作品は1都9県(東京都、神奈川県、群馬県、山梨県、長野県、岐阜県、愛知県、三重県、兵庫県、山口県)に及びます。西日本に作品を残した高遠石工は貞治以外には確認されておらず、また、他の高遠石工を見ても複数の場所で活動した例は少ないため、この広範囲にわたる活動こそが貞治の特徴といえます。これは願王和尚の影響によるところが大きく、貞治のよき理解者であり、彼の石仏を礼賛した願王和尚が、全国各地の布教先で貞治を推薦したためと考えられます。
身を律し、ひたすら意にかなう石仏を造立し続けた貞治でしたが、天保3年11月19日、静かに68年の生涯を終えました。他の石工を圧倒する技量で彫られた貞治の石仏は、端正で繊細優美でまさしく「貞治仏」と呼ぶにふさわしい名作ばかりです。
(伊那市ホームページより)
守屋貞治の細工張
(天保二年)
日本の農村地帯には石仏を多く見ることができる、この伊那・高遠地区には殊に多く、また江戸時代の風景が割合失われることなく残り、石仏も良く保存されている。
いたるところの路傍には道祖神・庚申塔・馬頭観音等が見られ、点在する各地の寺院を参詣すると、参道から境内、裏山までそれぞれ特色のある石仏を拝むことができる。